2019.07.12 ・  /

包丁の歴史と文化

日本の包丁がなぜ世界で認められるようになったのか、歴史や文化と合わせて解説しています。

日本の文化に根付く包丁

日本の刃物技術を語る上で、大変重要な役割を果たすのが「日本刀の製造技術」です。
日本刀と海外の剣の違いが、包丁の世界にも大きく影響していることを皆さんはご存知でしょうか。

刀や剣は、歴史上で様々なドラマを生み出してきました。文化、宗教など様々な要素が関係する、非常に興味深い道具と言えます。

「刀」と「剣」

日本刀

日本刀の特徴は、その切れ味と硬さです。それに比べ、海外の剣は、丈夫さやしなりの良さなどの柔軟性が特徴としてあげられます。この刃物に対する文化の違いは、体格の違いから来ているという研究もあります。

日本人は比較的体格が小さく、力も弱いことから、刃物に切れ味を求めるという傾向があるといわれています。

それに比べ、海外の人々は体格に恵まれており、力も強いので、切れ味を求めなくても、剣を重くすることで殺傷能力を高めることができました。また、しなりによる取り回しの良さや、錆びにくさ、丈夫さを求めた研究がされてきました。

食生活の違いも、独自の刃物文化を生み出す土台となっているようです。
例えば、肉に比べて魚の骨は柔らかいため、魚を食べる地域においては、包丁の硬度を高めても刃が欠ける心配は少なくなります。日本では、古来より魚や野菜が主体となった食生活を送ってきており、これが日本の刃物文化にも影響を与えています。

日本の宗教文化の、万物に神が宿るとする思想も、包丁に対する考え方に少なからず影響しています。
砥石を用いて包丁を研いだり、和包丁の差し込み柄のように柄を付け替え使い続けられるようにしたりすることは、モノを大事にする日本の先人の知恵と気持ちのこもった文化といえます。

包丁は庖丁(ほうてい)さんの刀だった

「包丁」は、本来は「庖丁」と書きます。「庖」とは料理人のことを指し、「丁」は紀元前の中国戦国時代、魏の国王の惠王に仕えた職人の名前とされています。「庖丁(ほうてい)」さんは古代中国の書物「荘子」に登場し、今から2千年以上前に存在した、伝説的な名調理人とされています。

刀さばきが非常に見事で、何十年も包丁を研ぐことも刃こぼれさせることもなく、数千頭の牛を見事にさばいたという記述が残っており、この「庖丁(ほうてい)」さんの愛用した刀「庖丁刀」が省略され「庖丁」と呼ばれるようになったといわれています。

面白いのは、中国で包丁のことを庖丁と呼ぶかというと、そうではなく、「菓刀」や「菜刀」と呼ばれること。調理に使う刀を「包丁」と呼ぶのは、日本だけの文化のようです。

独自に発達した日本の包丁

人間の道具として一番初めに使用された石器が、現在のナイフ・包丁と同じ用途で使用されていたように、包丁をはじめとする刃物が人間と関わりが深いことは言うまでもありません。

最古の包丁の形

図1:奈良正倉院に残る包丁最古の形

日本最古の包丁として現存するものは、奈良時代のものであり、奈良の正倉院で保存されています。
包丁は、研ぎ直して使用する消耗品であったことから現存するものはほとんどありませんが、奈良時代以前にも存在していたと考えられています。この最古の包丁の形状は日本刀のようで、柄が非常に長くなっています。

この形状の包丁は江戸時代中期まで使用されていました。
現在見られる和包丁の出刃や柳刃、菜切包丁と同じような形状の包丁は、江戸時代の中期から後期にかけて完成されたといわれています。江戸時代は世の中が安定し、文化が非常に発達し、それに伴い様々な調理文化が花開き、それに合わせて道具も進化していったといえます。

包丁の形状の変遷の歴史

図2:日本の包丁の形状の変遷

明治時代に入ると、文明開化によって海外から様々な調理方法が伝わり、これとともに洋式ナイフが日本に広まりました。日本では牛を食べる風習がなかったため、牛をさばくための洋式ナイフは一般的に「牛刀包丁(洋刀包丁)」と呼ばれるようになりました。

昭和時代に入ると、牛刀包丁と菜切包丁の良いところを一つにし、先端を斜めに落とした形状の文化包丁(剣型包丁)が開発されます。その後、この先端部を丸めた「三徳包丁」が生まれ、家庭での市民権を得るようになります。

現在では、この形状の包丁は日本伝統の形とされ、海外でも「Santoku」と呼ばれ、広く使われるようになっています。また、寿司文化の輸出とともに和包丁が海外にも輸出されるようになり、柳刃包丁を「Yanagi-Sashimi」や「Sashimi」、菜切包丁を「Nakiri」と呼ぶなど、日本固有の包丁がそのままの名前で海外に広まるようになっています。

現在、日本製の包丁の性能は世界的に認められるようになりました。海外の著名なメーカーのフラッグシップモデルシリーズが、実は日本のメーカーがOEM(相手先ブランド生産)で製造していることもあります。

日本食が世界的に有名になると同時に、日本で育ってきた「包丁」の伝統技術も認められるようになりました。
私たち藤次郎株式会社も積極的に海外への輸出を行っており、その切れ味と性能、デザインとともに非常に高い評価をいただいております。

包丁のふるさと

日本は、日本刀に代表されるように、非常に刃物の文化が発達した国で、日本の工芸品で最も早くブランドが生じたのも刀剣であるといわれています。

中国大陸・朝鮮半島から伝わった刀剣技術が日本独自の形になり、現在のような日本刀が作られるようになったのは平安時代初期から。桃山時代までには主に五箇伝鍛法地と呼ばれる5地方(備前=岡山、相州=神奈川、山城=京都、大和=奈良、美濃=岐阜)で制作されていました。
日本刀を製造するには、砂鉄を炭で高温に熱し、鉄を鋼にすることで生まれる「玉鋼(たまはがね)」の製法が重要で、この技術は刀匠によって脈々と受け継がれてきました。

明治以降、日本の刀作りは、廃刀令により一時的に軍刀の製造のみとなっていましたが、戦後に文化財保護法が制定され、主に愛好家が注文購入する美術工芸品として作られるようになりました。現在、日本刀は資格を持った刀匠以外は基本的に製造することができません。

廃刀令により、刀匠から鍛冶になった人も多く、「打刃物(うちはもの)」と呼ばれる包丁・農業用刃物などの製造はそのような人たちが製造したり、その技術を農民に教えることで根付き、現在に至っています。打刃物は鋼や軟鉄を釜で高温に熱し、ハンマーなどで打って形に仕上げる製法で、日本刀の製造技術が生かされています。

打刃物の代表的な産地としては、越後打刃物(新潟県)、越前打刃物(福井県)、堺打刃物(大阪府)、播州三木打刃物(兵庫県)、土佐打刃物(高知県)などが有名です。

昭和後期にはステンレスの製造技術が確立し、また、「玉鋼」に匹敵するといえる「利器材」を精錬する技術が生まれ、板状の材料を包丁の形に打ち抜くことで大量生産する「抜刃物(ぬきはもの)」の製法も確立。さびにくく、扱いやすい安価な包丁が市場に出回るようになりました。藤次郎株式会社の所在する新潟県燕市も、もともと洋食器の生産で有名な町で、この洋食器の製造技術が抜刃物の製造に生かされました。

近年一般的になった「オールステンレスタイプ」などと呼ばれる一体型包丁は、もともとディナーナイフなどの洋食器の製造技術を包丁に取り入れ、試行錯誤の中で生まれた燕市の職人の技術により作られています。

利器材を使う抜刃物の産地としては、藤次郎株式会社の所在する燕三条地域(新潟県燕市・三条市)、関市(岐阜県)などが有名です。

日本各地の包丁の産地

図3:日本の包丁の主な産地